
まどの一哉『西遊』をめぐって - ea
2011/12/18 (Sun) 00:09:57
蘭、スー、ミキ。キャンディーズって
誰か指摘してましたっけ?
Re: まどの一哉『西遊』をめぐって - ea
2012/03/26 (Mon) 23:31:23
彼の描く背景の建物は廃墟のように見える。前の作品集もほぼそうだ。それはメビウスの亜流を通過した描法による処が大きいと思うが、『西遊』はより日常の廃墟が意識して描かれている様に思う。
境界線上 - ea
2012/03/21 (Wed) 22:36:35
最終話のラストシーンは他のどのシーンよりもリアルだ。それへの導入部の主人公の妻ミキの台詞「どんな夢を見ているのかしら…」は、このラストシーンは夢だよとあらためて読者に誘引している。その前のコマで妻は夫の手を握る。そして最終ページの仲良くつながれた手も、やはりよく見ると妻が夫の手を握った形に描かれている。これは現実の妻の行為が主人公の夢に反映したと、読者が思えるようにそう描かれたとも読むこともできる。ともあれ先の妻ミキの台詞は意識が戻る可能性がほとんどない寝たきり状態の主人公への感想だが、そうゆう状態の患者と普段の眠りから夢見る状態が同定できるとは限らない。もし寝たきり状態の患者が夢を見るなら凄いね。彼にとってその夢が唯一の現実になる。
Re: まどの一哉『西遊』をめぐって - 甲野酉
2012/03/03 (Sat) 15:47:17
夢(妄想)と現実との独特な曖昧さがまどの作品の面白いところの一つだと思っていたので、「ラスト一歩手前までが現実」とする区切りがよく分からなかった。
現実と夢(虚構/バーチャル)の違いは、突き詰めればほとんどなくなってくる。バーチャルの中での感覚や記憶のほうがリアルに感じるなら、マトリックスの世界みたいにどっちが現実か自信が持てなくなってくる。そして最終的には、自分がどれを選ぶかでどれが現実になるかが決まるんだって話になる。
けれど、自分の意図で世界が選べるならそれは夢なんじゃないのとも言えるし、現実とは実はそういうものでその人が見たいものしか見てないんだよって言うこともできる。下手すりゃ無限ループだ。
そして、まどの一哉にはまどの一哉の無限ループがあり、それをとりあえずでも恣意的でも断ち切るのものを現実としているのかもしれない。
多くの人がハッピーエンドと捉えるものを描きながらも「救いのないラスト」と作者が言うのは、片方を現実にして片方を現実でないと線引きした途端、嘘と本当が裏返ることを追い切れない作者自身の苦しさにあるのではないかという仮説を立ててみる。そして「幸福観」というものはまどのの場合、必ず現実の上にのっかるものと推測されるが、見えてるものだけが現実でないというマンガを描いてきたのは、作者本人である。また、幸福そのものが、現実よりも夢や妄想に親和性を持つものだとしたら、「幸福観」は二重の妄想だ。
何かがすべてひっくり返る。
死線を超えなければハッピーエンドにならない物語は、ハッピーエンドではないと、まどのの言葉を解釈するならば、それは物語そのものに対する反旗であり、「西遊」は、物語に乗っかった反物語という、ひっくり返った深読みができる。死線を超えるといういう事も、ハッピーエンドという事態も、物語の中での約束事であり、現実がそういった物語に侵食される事はあっても、現実を現実としているものは物語ではないところである。
物語作家ではないまどのが物語(風)の長編を描いたとき、ハッピーエンド説を否定する言葉の中に「現実」という単語が出てきたのは興味深いと思った。
Re: まどの一哉『西遊』をめぐって - 三田村
2012/02/14 (Tue) 15:04:20
まどの一哉さん本人がつぶやいている。「拙作『西遊』のラストをハッピーエンドととらえる人が多いのがすごく意外だ。作者は全く逆のつもりで描いた。ラスト一歩手前までが現実であることを説得するにはコマ数が少なかったか。あるいは幸福観の違いか。」「『西遊』のラストで泣いてくれた人が何人かいるが、作者の狙いはそこにあった。ハッピーエンドと思われたのは作者の力不足だった。」「救いのないラストなんやけど、夢を見ているのが現実より幸せという考え方もあるしな…。」
作者の意図がわからない。
夢のプロトコル - ea
2012/02/09 (Thu) 23:10:37
夢は、夢の中はつじつまの合わない事ばかりだ。しかし夢の中でそれは看過できる。と云うより看過せざるをえず、どんどん物語はあれよあれよとスルーしてゆく。まあゆってしまえば現実もそれにひけをとらずつじつまの合わない事ばかりなのだが、それでは生きて行けないので何とかつじつまが合うように日々徒労調整し日常とする。たとえば「彼はそうゆう人格なのだから仕方ない」とか「自分自身に思慮が足りないだけ」なんだとか「みんな世間が悪い」とか。そうやて微調整してもやっぱりつじつまの合わない事は残る。でも現実には便利な時間とゆうのがあってどんどんほころびを後に追いやってくれる。そういうふうにして看過せざるをえない現実が現実にはある。ところで現実はなんでリアルなんだろう。
Re: さらに気になる切片 - 三田村
2012/02/06 (Mon) 16:22:47
全然関係ないんだけど、金ゐ國許氏の解説なんか読むと冒頭の交通事故シーンは岡崎京子さんを連想してしまう。関係ないんだけど・・・
http://www.asahi-net.or.jp/~aq4j-hsn/okazaki/accident.html
Re - ea
2012/01/28 (Sat) 23:40:52
大雑把にゆうと,夢物語を夢の規則儀礼で描かれた漫画に成るのかな.
さらに気になる切片 - ea
2011/12/27 (Tue) 23:18:37
71ページ第5話扉の悟能の右足、『架空』連載時にも線が一本抜けたのかと気がかりだったが、一冊になっても訂正が為されて無いのを見ると、作者は韜晦したのかなおさら不気味だ。
ズレ - 甲野 酉
2010/03/18 (Thu) 12:11:55
「タスケ」と「る」で「助ける」で、一つの作品が連作になってずれているのかもしれません。
この場合に限らず、斎藤さんの漫画には、「ズレ」が多用されている印象があります。双子が出てくるのは、それが象徴としてイメージ化されたものではないのでしょうか。脱臼したような言葉群や似非伏線様の多重化も、斎藤漫画の場合は何かしらの「ズレ」を生み出そうとしているように感じます。そうやってできた「ズレ」という「間」自体が一つの作用になって作品を成立させており、さらに作品間における「ズレ」も、それこそが本当の作品といえるほどの働きを獲得しています。
斎藤さんの最近のテーマである「迷子」はまさに「ズレ」の狭間で迷える者であり、「合作」や「互助」や「タスケ」によってつくられるさらなる二重性に導かれていくものと思われます。
その二重性とは、いろんな意味を含みえますが、作品にとっては少なくとも二つあります。一つは、作者のイメージと実際に作品として紙に定着したものとの二重性。もう一つは、作者と読者の二重性。斎藤漫画を読むと、その「間」に立つのが作品であり、「ズレ」そのものであるという気がしてきます。
西野さんも直観的にその「ズレ」に引っかかりを見つけているのではないかと思います。
屋我平勇「川端柳」(『架空』8月号掲載)について - 甲野酉
2011/02/01 (Tue) 23:45:52
これは、屋我式の「ねじ式」だと、6コマ目の「白昼夢」や「自覚」といった文字が書かれた看板のようなものが並んでいる様子を見て、ふと思い当たる。
しかし屋我式では、医者はあっけなく登場し、「鏡面の/水面でなく/流れる川面を/のぞみみるがよい」と忠告する。どうやら主人公の男は、鏡のように静止した水面に、何かの姿が見えるのを、幻覚として知覚しているらしい。幻覚を楽しめない事もないが、彼は医者にかかる。「さすが/名医の/ひとこと」とひとごとのように忠告を受け入れる男は、どこか医者の言葉を予感し、先取りしていたように見える(そこには、顔の描かれていない主人公に代わって、作者がいたずら小僧的に顔をのぞかせているようだ)。
名医にすすめられた通り「むこ川」(兵庫県の武庫川か)へ行くと、川面に「境界線」を見出すが、振り切るように「治療」へ向かう。彼は、「流れる川面」にふれることができたのだろうか。
川の手前で、石を焼いて売っているお婆さんが現れる。これも、「ねじ式」で金太郎アメならぬ桃太郎アメを売っていたお婆さんを思い起こさせる。アメの製法特許を持つお婆さんが、ここでは「シンセイ品」の焼き石を売り、「境界線」までは感覚を駆使してたどり着いた主人公に、治療の決め手を提供してくれる。
静止した水面に彼が見ていたものは、彼には何かがずれていると感じ取られるものだったのではないか。静止しているから、「すがた」というはっきりした「何か」の形ではあったろうが、肝心な「何か」がきっと彼には違ったのだろう。それよりも「流れる川面」を「のぞみみる」ことで、はっきりした形を認識する手前で、「何か」の動きや行為にふれようとしたのではないか。認識(知覚)と行為との間には「相互隠蔽」の関係があるというから、「流れる川面」という行為(動き)をクローズアップすることで、それを隠蔽するほどの幻覚でない認識を呼び戻そうとしているように見えなくもない。ラスト近くで、川面や川原に石を投げ入れて立ち上がってきたサングラスの男が手にしている魚が「三人前にみえる」のは、そういった幻覚でない認識を得つつある主人公の様子であろう。
主人公の男が、鏡面に見ていたものが本当に幻覚であったかどうかは定かでない。あるものをないと言ったり、ないものをあると言ったりするのが常識的社会的な態度だったりする。ラストの「三人前にみえる」という表現も、何かを保留したままでいるとも言える。何が前面に出てくるかということには、必ず何が隠蔽されているかということが対になっている。しかも、静止した水面には、隠蔽は隠蔽の姿では現れない。「流れる川面」の底のほうに眠っている。
「川端柳」には、「鏡面の水面」「境界線」「流れる川面」の三態が、水引のように絡まりあっている。
見ましたか? - kokoro URL
2011/09/04 (Sun) 08:45:53
世の中には簡単で儲かる仕事があるもんだ(*・ω・)!! http://tinyurl.k2i.me/GoeA
『至福の島から。』2 - 甲野酉
2010/10/30 (Sat) 14:52:10
全く手のつけようが無いハイセンスに魅了される心を押さえ、作者・斎藤種魚にほったらかしにされた読者・私は、
一歩ずつ先に進むしかない。
一行目から、「救済」という言葉。そして、助かったのは、「僕等」だけ、つまりこの通信を行っている作者と読者だけだという。しかしそれは、特に選ばれた者というわけではない。哲学ではない観念とはいかなるものか。それは、事態がリアリティを持たない、本気ではない、自分のシステムである。本気になれば、すべてがリアリティを持ってしまう。愛とか正義とか勇気とかは、本気という制度がそれをリアルにしている。手紙の差出人は、ホントをウソというウソの天邪鬼ではなく、ウソをウソとウソのようにささやくような優しい天邪鬼なのかもしれない。隣には、帽子を被った男のアップの絵。ポストマンだろうか。黒いハット、黒い涙、金と銀の眼?二者の間を取り結ぶ役割のポストマンは、両目から他人事のように涙を流している。この涙の元が、リアリズムにないことは確かだ。誰かの涙であり、誰かの涙はそのまた誰かの涙であり・・・・と、どんどんさかのぼっていく。その先にあるものは、デカルトでもないのだ。
『至福の島から。』1 - 甲野酉
2010/10/14 (Thu) 23:04:55
1986年に喇嘛舎から出た斎藤種魚の単行本『至福の島から。』は、緑色の至福の島(作者)から、ムラサキの無形国(読者)への通信である。見返しをめくった扉には、切手のような絵も描かれている。作者が起こした「緑色革命」の共謀者となり「菫色的反抗」に出る読者は果たしてどれほどいるであろうか。
この革命的通信は、まるで虹のように魅惑的で鮮明に脳をよぎるが、すぐに逃げ去ってしまうものでもある。この本の中で印象的な色である、緑・紫・赤は、虹の色なのだろうか。至福の島の住人である「僕」(作者)は、虹の半ばに位置する緑から、虹の内側の端へ、つまり、無形国の住人である「君」(読者)の位置する紫へ向かって進む。逆方向の外側の端は赤である。そこには「口紅を塗めたランドセルの人」がいる。「僕」はその赤い女たちには明らかな不信感を示しているが、彼女らの側には対のようにポストマンも描かれている。彼女らとの通信も示唆しているのだろうか。
盆ジュール - 甲野酉
2010/08/12 (Thu) 12:15:05
「世間で行われている事のちょうど逆を行いなさい」
「自分を絶対的に愛しなさい」
ルソー『エミール』
教育の聖典とされている『エミール』を書いたルソーは、一度も学校教育を受けた事がない。というか、教育の持つイメージとは真逆の人生を送っている。素朴さと粗雑さと奇妙な人間味が『架空』に似ている気がした。
Re: 盆ジュール - 西野
2010/08/13 (Fri) 19:44:41
これは、僕そのものですね。本当は逆を行くつもりはないのだけれども「100人いれば、99人がいいと思うものですよ。」と言われれば、即時に「99%駄目なものという事ですね。」という返答が浮かんでくる。
大体の人って「誰々がこう言ってた」という、一般的にいう〈忠告〉が本当の理由の根源になっています。
「ワンピースは初版135万部だそうですよ」
そして「二個」 - 甲野酉
2010/07/07 (Wed) 22:39:47
屋我平勇の「二個・・・」(『架空』4月号掲載)は、わずか4ページの作品であるが、そこには「個」の意識が濃密に充満している。夢と現実、生と死が分化する以前の夕ぐれが一つそこにはある。しかし二個のじゃがいもは、母と兄と弟(視点の持ち主)と三人がそろわない、欠けてしまったものへところころ転がりだす。欠けてしまったものは、兄なのか(「兄は歩けずに死んだから」というナレーション)。明りが灯ると同時に唐突に帰ってくる兄を、母は一歩一歩食卓へ連れて行くが、自分の上着でくるむように赤ん坊を抱くようにしている。ここでまた繰り返される、食卓の二個のじゃがいも、繰り返されるナレーション(「夢にみたことだから(夢なのだろう)」)、飛行機と鉄塔の影。「帰宅のよろこびへの笑い」の「帰宅」は、もう帰ることができない、あるいは、かつて一度も帰った事のない場所/時間への帰宅をさしているのだろうか。兄だけでなく、三人ともが三人そろって帰れる場所/時間を分け合っている様が、最後のページの三段目最初のコマに、空の飛行機と地上の鉄塔と海の船が一緒に描かれている点に垣間見る事ができる。そのコマにかぶさるナレーションは、「見たもの」「覚えているもの」。直前のコマでの、「・・・まだすこしあるよ」という兄の言葉。三人でいられる場所/時間が「まだすこしある」のは、「見たもの」「覚えているもの」が消えないうちだけである。それは、人々が帰宅する夕ぐれ時のほんのひと時とも重なり、繰り返される一瞬でもある。三人で一緒にいるときは、どちらが兄でどちらが弟かわからないように描かれているし、じゃがいもはだれがたべるかわからないし、炊事場で「ゆげにつつまれてみえない」母は最後のコマではまるで幽霊のような声でこたえる。三人は、各々自分を自ら分かつ以前にまで帰っているのだ。
「共有」と「個」 - 甲野酉
2010/07/07 (Wed) 22:38:00
「創造主」(作者=起源=オリジナル)のカリスマ性神話の崩壊とか、芸術と経済の共犯性とかが、すでに後方に置き去りになっている(あるいはむしろ、より安易な形で回帰している)現在の状況において、文化資本については、生産者と消費者は部分的に重なるどころではなく、ぴったり一致するようになる。例えばこのネット上では、あらゆる人が発信者(生産者)であり受信者(消費者)だ。「生産」と「消費」は融合し、曖昧な「共有」へ収束していく。
「共有」には必ずしも「共感」を必要としない。従来の意味での正統的な「消費」すら、完全には伴わなくても「共有」は成立可能だ(「消費」に対する「共有」の有り様は、「所有権」に対する「占有権」と相似する。消費者は自分に「所有権」のあるものを「消費」するが、共有者は、自分に所有権はないものの実際に占有している「共有」物を、所有権に付随する対価を支払わない範囲内で可能な限り利用する。通常は「所有権」が「占有権」に優先するが、作者にカリスマ性の「所有権」がなくなった現在では、占有者があらゆるものを占有する)。
「共有」の「共」は「個」よりも小さい。複数の「個」の円が交わるほんのわずかな重なりが「共」であるからだ。この意味で、「共」は「一般」と同じである。が、また、「一般」と同様に本分を超えて、「個」よりも普遍的で蓋然性の高い概念だと錯覚される。ネットの自由度は、「一般」から「個」を奪回したように見えるが、ネット上の「個」のほとんどが「一般」の焼き直しに過ぎない。みな、自分自身よりも狭く、「個」にとってはむしろ例外的なはずの「一般」や「共」に価値を置く転倒現象をなかなか転覆できないでいる。これが転覆できれば、『架空』の読者は増えると思われるのだが。しかしそれは、難しい闘争だ。『架空』という「場」は、マイナーマンガ界あるいはマンガ界だけの動きに関係しているわけではない。『架空』は期せずして、社会のあらゆるものに闘争する(逃走する)形になっている。それはかつて19世紀末にフローベールやボードレールが直面した闘争よりも、厳しい(優しい?)闘争である。彼らは貴族のパトロン無き後の文学界に、経済的な資本に対抗する象徴的資本をつくり出し、その権力を作家自身に持たせることで新しい「場」をつくってきた。では、作家に象徴資本無き後の現在の世界では、何が新しい「場」をつくるのか。もはや、「場」はつくれないのか。必要ないのか。『架空』のHPの「いちげんさん専用」の掲示板に閑古鳥が鳴いているように、読者がただ読者という階層だけでは現れなくなってきている以上、読者によって成り立っていた経済的な資本も成り立たない。経済という一元化の裏返しである商業-文化的価値の二元化すらもはやおとぎ話のような無力化を被っている。
ただ救いは、商業(メジャー商業誌)-文化的価値(マイナー同人誌)の二元化などほとんど感知しない新しい描き手が、『架空』という「場」を得て、描く意欲を持っていることだ。このことをかんがみると、「場」というものが「個」とほぼ同義なほど細微化されてしまったともいえるだろう。個人の意識が『架空』の存在する「場」そのものなのである。『架空』の存在する「場」は、個人の意識にしかないともいえる。細微な「個」が、従来の文壇とかマンガ業界とかアカデミックな芸術とかから可能な限り自律し本来の大きさ(自由さ)を取り戻すためには、やはり個々のマンガ作品の自由な読み方を提出することがとりあえずの第一歩だと思われる。つまり、読み=批評の自律性も同時に問われることになる。「個」の広さを、作者の権威(=社会の中でつくられた「共」あるいは「公」)に還元するのではなく、作品の持つ何にも還元されえない意識の強度として表すことができればいいと思う。
『洞窟ゲーム』について - 甲野酉
2010/06/06 (Sun) 18:24:22
まどの一哉の短編集『洞窟ゲーム』には、本当の現実が描かれている。12作品すべてに通底する恐さやおかしさは、ここからくる。つまり、私たちがふだん現実(日常)と呼んでいるものの虚構性がはがされる恐怖を、まどの作品は体験させてくれるのだ。
例えば名作「豹変」では、カバンが裏返って豹になり、豹の中身(正体)は人間の女性であり、その豹が狙う人間が人形だったりする。女性の彼氏がヒマラヤへユキヒョウの写真を撮りに行く日が16日で、女性が豹になって人殺しをする日も16日で、そこに劇性をはらむリンクを感じさせるが、その実体は何も起こらない似非伏線なのだ。
ここで一つ注目したいのが、女性と彼氏が並んで歩いているシーンで、いつのまにか女性が豹に変わっていて、豹の目がアップになるところ。その豹の気配を感じて彼氏が振り返ると、猫がいるだけ。これは、似非伏線→がっくりオチの原型版ともいえると思うが、よりわかりやすく似非伏線の持つ二面性の特徴が表れている。似非伏線を、安全な日常(多くの人々が信じている現実)へと落とし込めば、まどの一哉本人が言うようながっくりオチ(猫)となる。が、逆に、そういう日常こそ実は虚構であるという視点へ落とし込めば、似非伏線は真実の妄想(豹)となる。先に、並んで歩いていたはずの女性が豹変したと書いたが、実は、それが絵ではっきり示されているわけではない。後をつけている豹は女性ではなく、ラストでひとりでに豹に変化したカバンである方が本当かもしれないのだ。それが、真実の妄想という事である。
よくよく考えてみれば、現実は辻褄の合わないことや非合理的なもので満ちている。人々はそれらを取り繕い、何とか理由をつけながら生きているに過ぎない。似非伏線は出来損ないのダミーではなく、取り繕いや理由付けというダミーをはいだ、本当の現実の断片を見せてくれるものだ。それらの断片の上には、私たちには不穏な予感としてしか垣間見ることのできない真実の妄想が世界を覆っている。
「プロペラ」の主人公の家の上にやってきて、ラストで彼を破滅(真実の現実)へと導く巨大なプロペラがそれにあたる。ここでの似非伏線は空飛ぶ営業であり、そんな地に足がついていない非常識な営業は全く評価されないというのががっくりオチになるのだろうけれど、これが他の作品と違う所は、がっくりオチに主人公が参加していないという点。せっかく周囲が安全な日常的オチに落とし込んでくれたのに、主人公は全く気づいていないため、似非伏線は真実の妄想へと一直線に暴走していく。本書の中では、がっくりオチとのバランスをとらずに、真実の妄想へ大きく傾き、妄想が現実とまでなりつつあるところまで描いた異色の作品ともいえるだろう。
長生きしたければ、真実の現実は妄想にとどめておくべきということだろう。